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最高裁判所第二小法廷 平成6年(オ)1084号 判決 1998年1月30日

上告人

甲野太郎

右訴訟代理人弁護士

喜田村洋一

被上告人

株式会社朝日新聞社

右代表者代表取締役

中江利忠

右訴訟代理人弁護士

近藤卓史

三宅弘

主文

原判決を破棄する。

本件を東京高等裁判所に差し戻す。

理由

上告代理人喜田村洋一の上告理由について

一  本件は、被上告人の発行する新聞に掲載された記事が上告人の名誉を毀損するものであるとして、上告人が被上告人に対して不法行為に基づく損害賠償を請求するものであり、原審の確定した事実関係の概要は次のとおりである。

1  被上告人の発行する「朝日新聞」紙の昭和六三年一一月一九日付け朝刊紙面の第二九面に、第一審判決別紙のとおりの記事(以下「本件記事」という。)が掲載された。本件記事は、「何を語る 推理小説137冊」との見出しのほか、「甲野、ロスのすし屋に“蔵書”」「『異常な読み方』ジャンル選ばず手当たり次第に」等の小見出しを付した八段抜きの記事である。

2  上告人は、昭和五六年に他の者をして妻を銃撃させ昭和五七年に同人を死亡させて殺害したとの公訴事実により、昭和六三年一一月一〇日に公訴を提起されていたところ、本件記事は、(1) そのリード部分において、右殺人被告事件についての上告人に対する捜査は間もなく終了しようとしていると報じ、続いて、「自供を得られず、物証も乏しいものの、甲野が金欲しさに仕組んだという事件の構図については、捜査陣の確信は揺らいでいない。しかし、なぜ殺人に至ったのかという動機の奥深い部分は、なぞのままだ。その手がかりになりそうな一枚のリストが、警視庁の捜査本部にある。甲野はいつも小説本を離さず、読み終えるとロス市内のすし屋にあげていた。ほとんどが殺人事件を素材にした推理小説。リストはその一覧表だが、、『ここから甲野の深層心理を読み取るしかない』と刑事たちはいう。」と記載されており、(2) その本文の前段部分においては、上告人が、昭和五三年ころからしばしば利用していたアメリカ合衆国力リフォルニア州ロス・アンジェルス市郊外所在の飲食店に対し、前記殺人被告事件等の疑惑が表面化した昭和五九年一月までの間に、読み終えた推理小説一三七冊を寄贈していたこと、捜査本部は、これらの書物について調査した結果、動機の背景に上告人が犯罪小説におぼれたことがからんでいないかと注目するに至ったことを報じた後、「事件後に甲野が見せた芝居がかった行動、セリフには『金欲しさ』だけで説明しきれない異常さがある。それは何に由来するのだろうか。(中略)『甲野が自分で犯罪小説を創作し、自ら演じようとしたのではないか』とする見方も、捜査員の中には生まれている。」と記載されているほか、本文の後段部分においては、日本推理小説作家協会の理事長が、上告人の読書歴に関し、「『ロスへ行った時期に出版されたものを手当たりしだいに読んだ、という感じですね。(中略)素材の犯罪そのものに対する興味かもしれないが、ちょっと異常な読み方だと思います』」と述べたことが紹介されており、(3) 記事の左側部分に、「『狙撃者』『迷宮捜査官』『結婚関係』……」との小見出しを付して、飲食店に寄贈された書物のうち一〇六冊の題名が列記されている。

3  上告人については、昭和五九年以来、前記殺人被告事件の嫌疑のほか、右殺人の犯行前に妻を殺害しようとしたとの殺人未遂の嫌疑等についても、数多くの報道がされていた。被上告人の担当記者は、同年四月ころ、上告人が前記のとおり飲食店に多数の書物を寄贈していることを知った後、現地の協力者を通じてその書物の内容について調査し、その一部が右飲食店に現に存在することを確認した上で、捜査担当官及び日本推理小説作家協会の理事長に対する取材を行って、本件記事を作成した。

二  上告人は、本件記事は一般読者に対して上告人が前記殺人被告事件を犯したとの印象を強烈に与えるもので、上告人の名誉を毀損するものであるなどと主張している。

これに対し、原審は、以下のように判示して、上告人の請求を棄却した。

(1)  本件記事は、全体として、一般読者に対し、上告人が金欲しさ又は犯罪小説を自作自演しようとの動機の下に前記殺人被告事件を犯したとの印象を与えるものであることは否定できない。(2) しかしながら、本件記事は、上告人の犯罪行為という公共の利害に関する事実に係るものであり、また、その公表の目的は専ら公益を図ることにあった。(3) そして、人の行為の動機は、深層心理にかかわる事柄である上、人の思考過程が複雑かつ多様であり、必ずしも合理的なものとはいえないこと等にかんがみると、人の行為の動機を他の者が判断する客観的基準があるとはいえず、その真偽を客観的に証拠により証明することが可能なものであるとは到底いえないから、他人の行為の動機についての記載は、意見を表明(言明)するものに当たる。(4) 本件記事における上告人の前記殺人被告事件の動機についての記載は、本件記事が掲載領布された時点において、既に新聞等により繰り返し詳細に報道されて社会的に広く知れ渡っていた上告人の前記のような嫌疑に関する事実と、被上告人の担当記者の取材に係る真実の事実又は同記者において相当の理由に基づき真実と信じた事実とを基礎として、捜査担当機関の評価も加味し、上告人の動機を推論するもので、その推論をもって不相当、不合理なものともいえない。(5) したがって、たとえ本件記事が読者に前記の印象を与え、上告人の社会的信用を低下させることがあり得るものであっても、不法行為を構成しない。

三  しかしながら、まず、原審の右(3)の判断を是認することができない。

新聞記事中の名誉毀損の成否が問題となっている部分において表現に推論の形式が採られている場合であっても、当該記事についての一般の読者の普通の注意と読み方とを基準に、当該部分の前後の文脈や記事の公表当時に右読者が有していた知識ないし経験等も考慮すると、証拠等をもってその存否を決することが可能な他人に関する特定の事項を右推論の結果として主張するものと理解されるときには、同部分は、事実を摘示するものと見るのが相当である。本件記事は、上告人が前記殺人被告事件を犯したとしてその動機を推論するものであるが、右推論の結果として本件記事に記載されているところは、犯罪事実そのものと共に、証拠等をもってその存否を決することができるものであり、右は、事実の摘示に当たるというべきである。立証活動ないし認定の難易は、右判断を左右するものではない。

四  次に、原審の前記(4)の判断も是認することができない。

ある者が犯罪を犯したとの印象を与える新聞記事を掲載したことが不法行為を構成しないとするためには、その者が真実犯罪を犯したことが証明されるか、又は右を真実と信ずるについて相当の理由があったことが認められなければならない。そして、ある者に対して犯罪の嫌疑がかけられていてもその者が実際に犯罪を犯したとは限らないことはもちろんであるから、ある者についての犯罪の嫌疑が新聞等により繰り返し報道されて社会的に広く知れ渡っていたとしても、それによって、その者が真実その犯罪を犯したことが証明されたことにならないのはもとより、右を真実と信ずるについて相当の理由があったとすることもできない。このことは、他人が犯罪を犯したとの事実を基礎に意見ないし評論を公表した場合において、意見等の前提とされている事実に関しても、異なるところはない。

五  以上のとおり、原審の前記(3)及び(4)の判断並びにこれらを前提とする同(5)の判断は、法令の解釈適用を誤ったものというべきであり、この違法は原判決の結論に影響を及ぼすことが明らかである。論旨は理由があり、原判決は破棄を免れない。そして、本件については、更に審理を尽くさせる必要があるから、原審に差し戻すこととする。

(裁判長裁判官大西勝也 裁判官根岸重治 裁判官河合伸一 裁判官福田博)

上告代理人喜田村洋一の上告理由

上告人の請求を棄却した原判決には、法令の解釈適用を誤り、ひいて理由不備の違法があり、この違法が判決の結論に影響を及ぼすことは明らかである。

一、意見免責の不当性

1 原判決は、新聞又は週刊誌の記事による名誉毀損が問題となる事件で、名誉毀損に該当すると指摘される部分が、「事実言明」ではなく、「意見言明」である場合には、当該記事が公共の利害に関する事項についてのものであり、

(1)イ 意見の基礎となる事実が当該記事において記載されており、かつ、その主要な部分について、真実性の証明があるか若しくは記事の公表者において真実と信じるにつき相当の理由があるとき(免責事実であるとき)、

又は、

ロ 当該記事が公表された時点において、意見の基礎事実が、既に新聞、週刊誌又はテレビ等により繰り返し報道されたため、社会的に広く知れ渡った事実若しくはこのような事実と当該記事に記載された免責事実からなるとき

(2) 当該意見をその基礎事実から推論することが不当、不合理なものといえないとき

には、そのような意見言明は不法行為を構成するものではないと判示する(原判決九丁)。

しかし、(1)イ、(2)が存在する場合に、不法行為の成立を否定することは正当であろうが、(1)ロ、(2)の場合にも不法行為の成立を否定することは不法行為法の解釈を誤ったものである。

2 あらゆる意見には、その根拠となり、前提となる事実が存在する(原判決にいう「意見の基礎事実」)。意見は、その基礎事実が誤っていれば、どれほど推論自体が正しいものであっても、「正しい意見」とはいえず、名誉毀損を構成するものである。

(註)後述するとおり、米国での一部の見解のように、「事実」と「意見」を峻別し、前者は真偽の判定が可能であるが、後者については「正しい意見」とか「誤った意見」は存在しえず、意見が名誉毀損を成立させることはないという立場もありえよう。しかし、原判決もそのような極端な立場を採用しているわけではなく、たとえば基礎事実が虚偽であることを知りながら、敢えてそれに立脚して意見を述べた場合((1)イが存在しない場合)には名誉毀損の成立を認めるのである。したがって、この限度では「誤った意見」というものを考える余地があるのであり、本上告理由書では、名誉毀損を構成するか否かによって「正しい意見」と「誤った意見」という存在を認めることとする。

したがって、ある事実を基礎とする意見は、これが正しいか誤っているかは、専らこの基礎事実が真実であるか、少なくとも真実と信じるについて相当性があるか否かによって決定されることとなる(前記(2)の推論が正当であるか否かの点は暫く措く)。

すなわち、意見が名誉毀損を構成するか否かについては、基礎事実の真実性を離れて考えることはできないのである。

3 ところで、原判決は、(1) において、基礎事実がマスコミ等で繰り返し報道されたため、社会的に広く知れ渡った事実である場合には当該意見は名誉毀損を構成しないとしている(ここでも、(2)の推論が正当であるか否かの点は暫く措く)。換言すれば、基礎事実が真実であるか、あるいは真実と信じるについて相当性があるか否かを論ずることなく、マスコミの報道によって社会的に広く知れ渡ってさえいれば、この事実に立脚して意見を述べることができるとするのである。

しかし、前述のとおり、意見の正否は基礎事実の真偽によって影響されるべきものであるから、基礎事実が社会的に広く知れ渡ってさえいればその真偽は関わりないとする判示が名誉毀損の成立に関する不法行為法の解釈を誤ったものであることは明白である。

なぜなら、意見の「正否」は基礎事実の真偽に依拠しているものであるから、ある意見が正しい(名誉毀損を構成しない)ものとして報道されれば、当該意見の読者は、その基礎となった事実が真実であるものと了解し、その真実性を当然のこととして理解することとなる。すなわち、ある意見を報じるということは、その意見が正しい旨を主張するにとどまらず、その基礎となった事実が真実である旨を主張していることになるのである。このように、意見と事実とは密接な関係を有するものであり、報道機関がある意見を報じれば、読者に対しては、その前提となった事実が真実である旨を確認させるという機能を果たすのである。

右の点は、基礎事実がマスコミによって広く報じられたものでない場合を考えれば、直ちに明らかであろう。ある人が、自分だけが知っていると称する事実を根拠としてある意見を述べ、これが報道されれば、読者は、その意見は、推論の正当性のみならず、基礎事実の真実性をも主張するものとして理解されるのである。

ところで、一般的に言えば、マスコミ等で報道された事実は、正しいものもあれば誤っているものもある。繰り返し報道されたことによって、誤った事実が正しい事実に転化することはありえないのである。しかるに、原判決は、マスコミ等で繰り返し報道された情報は、その真偽を問題とすることなく、意見の根拠として利用することができるとしている。このような意見の公表が許され、これが名誉毀損を構成しないとすることは、即ちその意見の根拠たる基礎事実が真実であることを認めることになるのである。

したがって、このような「意見」は、当該意見が前提として、その基礎となった事実の真実性を主張するものであり、これについて「意見言明」としての保護を与えるべきであるとした原判決は、「事実」と「意見」に関する法的評価を誤ったものなのである。

二、本件記事は事実言明である

1 原判決は、事実言明と意見言明を区別すべきであるとし、この両者を分かつ指標として、次のように述べる。

「事実言明は、そこで用いられている言葉を一般的に受容されている意味に従って理解するとき、ある特定の者についての現実の事実又は行為を叙述した表現であって、右事実又は行為の真偽が証拠により証明可能であるものをいい、他方、意見言明は、右以外の言明であって、多義的、不正確若しくは漠然としているため一般的に受容されている意味の中核を把握し難くその意味内容につき議論の余地のある言葉により表現されている言明、又はある特定の者の行為若しくは性質等についての評価若しくは論評を加えた言明をいう」(原判決一〇丁)。

そのうえで、本件記事中の「リード部分の、一美銃撃事件の犯行に至った動機の奥深い部分はなぞであるが、同事件の構図は〔上告人〕が金欲しさい仕組んだものではないかとの記述、及び、本文後半部分の、〔上告人〕が事件後に見せた芝居がかった行動、セリフには金欲しさだけでは説明しきれないが、金が目的ではなく犯罪小説を自作自演しようとしたのではないかとの記述は、犯罪の動機についての記述というべきである」(原判決一三丁)としたうえで、この部分の記述は意見言明であるとする。

その理由として原判決は、

「人の行為の動機は、深層心理にかかわる事柄であるうえ、人の思考過程が複雑かつ多様であり、必ずしも合理的なものとはいえないこと等に鑑みると、人の行為の動機を他の者が判断する客観的基準があるといえず、その真偽を客観的に証拠により証明することが可能なものであるとは到底いえないから、他人の行為の動機について叙述する言明は、意見言明であると解すべきである」(原判決一三丁)

と述べている。

2 しかし、原判決が述べる、本件記事中の「犯罪の動機についての記述」が「意見」であるとすることは、本件記事を全く誤読したものである。いうまでもなく、名誉毀損が成立するか否かの判断は、「一般読者の普通の注意と読み方を基準として解釈」すべきであることは古くから貴庁が判断しているところである(貴庁昭和二九年(オ)第六三四号、同三一年七月二〇日判決・民集一〇巻八号一〇五九頁)。そして、その判断にあたっては、見出し、リード、本文など記事の全体を対象とすべきであるとともに、記事が掲載された媒体の特性(新聞か週刊誌か、報道を主体とする媒体か娯楽を主眼とする媒体か等)、さらには一般読者が当時記事を読むうえで前提としている社会的文脈をも考慮すべきである。

そこで、本件記事が掲載された時点での社会的文脈を見るならば、本件記事が掲載された一九八八年一一月一九日には、上告人が殺人容疑で逮捕され、この事実で起訴されていた。そして、保険金についての詐欺の取調べもほぼ終了しており、捜査の幕がほどなく閉じられるという頃だったのである(本件記事のリード部分には、その旨の記述がある)。

そのうえで、本件記事は、「〔上告人〕が金欲しさに仕組んだという事件の構図については、捜査陣の確信は揺らいでない」(本件記事のリード部分)としたうえで、前記のような「犯罪の動機についての記述」を掲載しているのである。

すなわち、本件記事は、社会の耳目を集めたいわゆる「ロス疑惑」事件の終結を間近に控えた段階で、「右事件が上告人の犯罪であることは間違いないが、その動機がどこにあるかを探る」という形式になっているのである。したがって、本件記事はあくまで犯罪記事であり、その中で取り上げられている動機も、犯罪の動機なのである。

3 前述のとおり、原判決は、「人の行為の動機を他の者が判断する客観的基準があるとはいえず、その真偽を客観的に証拠により証明することが可能なものであるとは到底いえないから、他人の行為の動機について叙述する言明は、意見言明である」としている。そして、そのように解すべき根拠として、「人の行為の動機は、深層心理にかかわる事柄であるうえ、人の思考過程が複雑かつ多様であり、必ずしも合理的なものとはいえないこと」を挙げている。

しかし、人間一般の動機についての理解であればともかく、少なくとも本件記事における「動機」についての右のような理解は、一般人による本件記事の読み方ないしその前提と全くかけ離れたものである。なるほど、人間の行動一般について言えば、その動機は深層心理にかかわる事があろうし、人の思考過程は必ずしも合理的なものとはいえないということもありえよう。さらに、人間の各種の行為の動機について他の者が判断する客観的基準があるともいいえないであろう。人間の行為の動機には様々なものがあること、容易に判明するものもあり、奥深いものもあること、誰が見ても納得しうる合理的なものもあり、不合理としか評しえないようなものもあること。人間というものの行為ないしその動機に関するこのような現実は、古来から繰り返し宗教家、小説家が取り上げてきたテーマであり、近代に至っては科学者も取り上げる主題となっている。このような一般的な意味合いで言えば、「人の行為の動機を他の者が判断する客観的基準があるとはいえない」という原判決の指摘が成立すると見る余地はある。

しかし、本件記事が取り扱っているのは、およそ人間一般の行為の動機などではないし、名誉毀損の成否を争う本裁判では、他人の行為の動機を判断しうるかといった哲学的ないし宗教的な議論をしているわけでもない。さきほどから述べているとおり、本件記事は犯罪記事であり、本件記事が問題にしているのは「犯罪の動機」であって、このことは、一般読者が本件記事を一読すれば直ちに明らかなことである。そうであれば、ここで考察すべきは、人間のなしうるあらゆる行為についての動機ではなく、犯罪の動機である。

4 犯罪が発生すれば捜査が行われ、その結果、被疑者が逮捕、起訴されると裁判が開かれ、判決が下される――というのは、現代の日本においては常識である。そして、その裁判では、単に被告人が起訴された犯罪を犯したかどうかだけではなく、(その犯罪を犯していたとすれば)なぜ、そのような犯罪を犯したかという犯行の動機ないし犯罪の動機と呼ばれる事柄についても調べられるということは、これまた現代の日本では常識となっているのである。新聞、週刊誌、テレビなどでは、繰り返し、「犯行の動機は金」、「この犯罪は恨みによるものである」といった報道がなされているのであり、一般国民は、捜査ないし裁判の過程で、犯罪の動機が明らかになっていくことを当然と思い、それだけでなく、それが解明されることを求めているのである。

このような国民の常識ないし思考の枠組みを前提とすれば、人の行為の動機を他の者が判断する客観的基準はなく、したがって、「その真偽を客観的に証拠により証明することが可能なものであるとは到底いえない」という原判決の判断は、根本的に誤っていると評さざるを得ない。国民は、犯罪の動機は、捜査の過程で、そして裁判の過程で明らかにされる「事実」であると考えているのであり、証拠によって客観的な証明をすることが不可能なものとは決してみなしていないのである。犯罪の動機が証明不可能なものであれば、何のために犯罪の動機を解明しようとしているのであり、これが証明不能なのであれば、刑事裁判で認定している「犯行の動機」とは一体何だというのであろうか。一般国民は、犯罪の動機を他の者(裁判官、捜査官あるいは自分たち)が判断することは可能だと考えているのであり、被疑者ないし被告人の行動を前提とすれば、その犯罪の動機は見極めることができるとしているのである。したがって、動機の判断についても、「正しい」あるいは「誤っている」という判断を下しうると認識しているのである。

5 以上のとおり、他の行為はともかく「犯罪の動機」は、他の者が判断しうる事項であり、その判断の真偽は、典型的には刑事裁判によって、客観的に証拠により証明することが可能なものなのである。

したがって、「事実言明」と「意見言明」に関する原判決の定義を採用することとしても、本件記事の「上告人の犯罪の動機」に関する記述は、「事実言明」なのである。

6 ところで、本件記事における「犯罪の動機」に関する記述は、原判決も認めるとおり、「全体として、一般読者に対し、一美銃撃事件の犯行に至った動機の奥深い部分はなぞであるが、同事件の構図は〔上告人〕が金欲しさに仕組んだものではないか、あるいは〔上告人〕が金が目的ではなく犯罪小説を自作自演しようとしたのではないかとの印象を与える」(原判決八丁)ものであるから、これが事実を摘示したうえで、人の社会的評価を低下させるものであることは明らかである。

そして、前述のとおり、本件記事の右箇所は「事実言明」なのであるから、これが「意見言明」であることを前提として、不法行為の成立を否定した原判決が誤っていることは明白である。さらに、右「事実言明」について、真実性の証明ないし被上告人において真実と信じるについて相当の理由がないこともまた明白であるから、前記のような内容たる本件記事が名誉毀損を構成することは当然である。

四、米国法からの示唆

1 日本の名誉毀損法は、米国法からの影響を受けていることは明らかである。ところで、意見と名誉毀損に関しては、最近、米国連邦最高裁判決(Milkovich v. Lorain Journal Co., 497 U.S. 1(1990))が下され、この問題について新たな発展が見られたところであるので、簡単にこれについて論じることとする(詳細は、喜田村洋一「名誉毀損訴訟で、いわゆる『意見特権』は存在しないと判示した事例」ジュリスト一〇三四号一三一頁を参照されたい)。

2 右事件で被上告人(新聞社)は、「事実」ではなく「意見」と分類される陳述については、修正一条により名誉毀損から全面的に免責されるべきであると主張した。

しかし、レーンキスト長官の執筆した法廷意見は、次のように述べて、この考えを排斥した。

「意見が免責されるべきであるとする考え方は、『意見』の表明には客観的な事実の主張が含まれることが多いということを無視するものである。誰かが、『私の意見では、ジョーンズは嘘つきだ』と述べたときには、話者は、ジョーンズが嘘をついたとの結論を導く事実を知っていることを暗示しているのである。また、仮に話者が意見の根拠となる事実を述べていたとしても、その事実が不正確ないし不十分であり、あるいは事実に対する話者の評価が誤っている場合には、意見表明には誤った事実の主張が含まれることもありうる。ある陳述を意見という形式にしても、このような意味合いが消滅するわけではない。『私の意見では、ジョーンズは嘘つきだ』という陳述は、『ジョーンズは嘘つきだ』という陳述と同じ程度に信用を傷つけるのである。『私は思う』という語を付加すれば常に名誉毀損を免れるというのは不合理である」

そして、ある陳述が「意見」であるというだけでは名誉毀損の責任を免れるものではないと判断したのであり、この点は最高裁の全員一致の判断であった。

3 右のように、連邦最高裁は、一般的な「意見特権」は否定したものの、ある種の意見(虚偽と立証できない意見及び事実を述べていると解し得ない意見)は名誉毀損を構成しないと判断したため、この限度で「事実」と「意見」を区別することが必要になっている。

この区分としては、リステイトメント(Restatement (Second) of Torts, § 566[1977])の立場があり、ここでは、「ある意見中でその根拠となった事実が全て明らかにされている場合には、その意見は『純粋』意見として保護されるのに対し、当該意見中に、その根拠である名誉毀損的な事実で開示されていないものがある場合には、その意見は『混合』意見として保護されない」とされる。

また、もう一つの有力な立場は、オールマン判決(Ollman v. Evans, 750 F. 2d 970, (D. C. Cir. 1984)(en banc))で示された考え方であり、状況全体、特に(1)対象となる表現の通常の使用方法・意味、(2)当該表現が真偽を判定しうるか否か、(3)当該表現がなされた文脈、(4)当該表現のなされた広い社会的文脈、を考慮の対象とすべきとする。

4 ところで、リステイトメントの考え方を適用した場合には、本件記事には、意見の根拠とされる名誉毀損的な事実で開示されていないもの(原判決がいうマスメディアにより報道された事実を含む)があるのであるから、本件記事は「純粋」の意見としての保護を受けないこととなる。

また、オールマン判決の立場をとるにしても、既に述べたとおり、本件記事をその当時の社会的文脈において解すれば、本件記事が犯罪報道であり、「犯罪の動機」を取り扱っていること、一般的な動機は別として「犯罪の動機」は解明可能であり、したがって、犯罪の動機の判定(ある犯罪の動機を金銭目的としたり、あるいは怨恨としたりすること)は真偽を判定しうるものと理解されているのである。

このように、本件記事は、「意見」と「事実」の判定について、米国で有力とされる二つの方法のいずれを採用した場合であっても、「意見」ではなく「事実」を含む陳述であると解されるのである。

五、結論

以上に述べてきたところから明らかなとおり、本件記事は、上告人の犯罪とされる銃撃事件の動機を論じたものであるが、この記述は、原判決の分類でいう「事実言明」である。したがって、これを「意見表明」として名誉毀損の成立を否定した原判決は、不法行為法の解釈を誤ったものであり、取消しを免れないものである。

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